青浦フィールドノート・17
現代史(11)

富田 和広 (県立広島女子大学)


 今回も補足調査結果です。

(以下、『X郷志』の編者への聞き取り)

移民
 1920年頃S家がX村へ来た。親二人が来て働いて家を建てた。後で兄弟四人が来た。  

インフォーマントWの生活史
 X村で生まれた。1948年まで、学校で勉強していた。B廟を利用して学校をやっていた。教師は県から派遣されていた。家計が苦しくて、今で言う小学校5年の時にやめた。その後農業をした。両親は小作をしていた。16畝の土地を借りていた。上海の不在地主から借りていた。私も私の父親も地主に会ったことはない。代々借りていた。沈という地主。祖父から借り始めた。祖父は4人兄弟でLに住んでいた。祖父が大きくなってから家を出て人(図正)に頼んで16畝の土地と部屋を借りた。部屋代と土地代を一緒に払う。
 私の母は私のおじさんの娘ではない。祖父が結婚して「分家」して、Xへ来た。「分家」の時、祖父は自分の父から米五斗しかもらえなかった。引っ越してきたところはB廟だった。16畝だけがC(地主)の土地だった。(この16畝の土地はCが代々持っていたのではなかった。)
 土地を耕す人がかわるのは、地主がいやな場合と農民から申し出る場合がある。どちらも図正が案配する。農民から申し出る場合は、まず地主に申し出て、図正が手続きをする。うちの場合は、昔の耕作者の事は分からないが、一般的にはこうだ。
 農民には1年間の使用権がある。この間は地主は土地を勝手に売買できない。一戸単位で借りているので、親が死んでも再契約はしない。

地主の土地所有状況
 例えば五家あればみんな違う地主から借りている。まとめて土地を持っている地主は少ない。


 一般の農民は聞いたことはない。

Q村D家(地名)
 Q村には比較的道士が多く、この辺りでは有名だった。他の郷にも行く。
 Q村の道士は全員杜姓。D家(地名)は12、3戸だった。Q村は2、3つ姓が多かった。
 「打唱」は1〜3日かかり、1日に米3石払う。
Q:どうして多いのか。
A:代々道士だから。 

「分家・養老」
 親を養いたくない人が「分家」を拒否して、「養老」の義務を免除されることは絶対できない。もしそんなことを言ったら回りから非難される。実際にそんなことがあった。言い出したけれど許可されなかった。財産を分配されなくても親は養わなくてはならない。親が子を慈しまずとも子供には親を養う義務がある。
Q「物理的に養老できない時に財産分与を断わることがあるか。」
A「どんな時にも『産権』はある。もらうもらわないは自由。」
Q「『分家』と『養老』は関係があるか。」
A「『養老』は義務。解放前財産分配の有無とは関係ない。」
Q「『分家』はしない方がいいのかする方がいいのか。」
A「同輩は分家したい。親は年老いたら家族と一緒に住みたい。もし兄弟が喧嘩しないなら一緒に住みたい。」
 保証人は不満があるときに頼む。「分家」の保証人は戸主の妻の男兄弟がなる。いないときは姉妹の夫。
 「分家据」は「分家」の保証書。必ず作る。「分家」した子の数だけ作る。
 「分家」の理由は結婚、親の死亡、貧しさ。貧しいと兄弟関係が悪くなる。結婚も人間関係が問題。嫁と姑、嫁と妹、嫁同士、兄弟同士の不和。
 「分開吃」の時に一緒に財産も分ける。
Q「『分家』を言い出すのは?」
A「原則的には『分家』分家をしたい人。実際には父親が言い出すことが多い。子供が言い出すときには、親に迷惑をかけないように言い出す。」
 身体障害者でも財産は分けてもらえる。婿に出ない限り「産権」はある。
 借金は地主から借りることが多い。親属から借りることが多い。母方のおじ。友人からもある。利子があっても高くない。地主から借りるときには「保人」(保証人)が必要。保証人はどちらかが知っている人。「米行」から借りるときも必要。どちらかから借りるかは決まっていない。
Q「工業化以降、『養老』しなくなった原因は?」
A「そんなことはない。昔より少ない。昔は子供が『養老』について不公平を感じる。養いはするけど気持ちは余り養いたくない。『養老』の方法に解放前と変化がある。解放前は社会の世論で監督していたので、怠けても回りの人が文句を言うだけ。今は行政が監督するので強制的に養老させる。昔から、親が子供に悪くするときには理由があった。昔から親を養いたくないと言う気持ちがあった。昔は養いたくない人もいたけど実際には養っていた。

次回からは「大衆芸能」についてです